チクリと痛む気持ちの正体
✔️がんばっても誰も気づいてくれない。
✔️家族に感謝されない。
✔️何かを伝えても、軽く流された。
その瞬間、心の奥がチクリと痛んで、
「わたしの想いなんて、誰にも届かないのかも」と
つぶやきたくなる。
これは、自分の本音がひょいと顔を出す瞬間じゃな。
じゃけどな、わしから見れば、
その痛みは “わたしも大切に扱われたい” という、当たり前で健やかな願い。
「ほんとうは分かり合いたい」という願いが、
お主の中にちゃんと生きとるんじゃ。
愛のリターンを求めてしまう理由

✔️認められたい
✔️評価されたい
✔️ちゃんと返事してほしい
✔️愛のリターンが欲しい
こういう欲求が生まれるのはのう……
お主が「自分という存在が、ちゃんと受け取られておる」と感じたいからなんじゃ。
相手から反応や評価がないときに、胸がきゅっと寂しくなるのは当然なんじゃよ。
だってその瞬間、お主の存在が宙ぶらりんになったように感じてしまうからのう。
ただのう……
その寂しさのまま、ずっと相手の反応ばかり追いかけておると、
お主のエネルギーが外へ外へ流れていってしまう。
「どう思われてるんじゃろ」
「わし、間違っとるのかもしれん」
「もう黙っておいたほうがええんかのう」
そんなふうに、心の重心が“他人の中”に移ると、
お主の内側で灯っておった光が少しずつ細くなる。
出すほど増える
ほんとはの、愛のエネルギーというのは 出せば出すほど満ちていく ものなんじゃ。
ところが「愛が返ってくるかどうか…」を前提にした瞬間、流れがピタッと止まってしまう。
例えるならのう、川が
「海に届かんのなら、もう流れん! わし流れ止めるぞ〜」
と拗ねてしまうようなものじゃ。
けれど、ほんとうの愛というのはの、
流れておることそのものが、すでに完成形 なんじゃ✨
流れておる、その瞬間にもう満ちておる。
海に届くかどうかは、じつは最初から関係ないのじゃよ。
拗ね心の正体は“愛されたい子”
誰にも気づかれなかったとき
家族に何も言われなかった時、
「もう知らない!」「もういい!」と心が閉ざしたくなるとき。
それは“愛されたい子”が顔を出したサインじゃ。
この子はのう、昔、がんばっても報われなかった記憶を握りしめておる。
「どうせさ…」と思うことで、
もう傷つかないよう自分を守っとるんじゃ。
だから、拗ねることも、沈黙することも、
実は防御のひとつ。
わしらはみな、“愛したいけど、でも怖いと感じる存在”でもあるんじゃ。
じゃからその子に、こう言ってやるんじゃ。
そうすると、風の向きが変わる。欲しがる愛から、与える愛へ。
その瞬間、エネルギーは再びお主の中心に戻ってくるぞい。
反応がない=危険?
人の脳は、相手の反応(うなずき・笑顔・返信)を「安全のサイン」として記録する。
だから、反応がないと脳は危険を感じ、交感神経が優位になり、
不安や、ときには怒りのホルモンが出る。
つまり、「反応がない=危険かもしれない」と錯覚してしまうんじゃ。
けれど、それは“現実の危険”ではなく、“思考の反応”にすぎん。
この仕組みを知るだけで、
「わたしが感じているのは不安の信号なんだな」と気づける。
気づくことは、感情を支配する第一歩なんじゃ。
呼吸を深め、体に戻る。
これだけで心の信号は静まり、
本来の愛の波動へと戻るんじゃ✨
気にならなくなったらどうなる?
お主が「愛の返信・リターン」を気にしなくなった時、
エネルギーの向きが完全に変わる。
外に奪われていた力が、すべて自分に還るんじゃ。
他人の反応で揺れていた心が、落ち着いてくる。
するとのう、不思議なことに、
今まで届かなかった人に、自然と愛が伝わりはじめる。
“見返りを求めない波動”は、最も純粋で強いからじゃ。
やがてお主の存在そのものが、
言葉よりも深く人を癒すようになる。
それが、「愛される人」ではなく「愛そのもの」になるということじゃ。
さいごに
……まあ、わしは愛の返信は気にならん。
今日も空の上から叫んでおるぞい。
お主の想いも、誰かの心でいつか光る。
反応がなくても、ちゃんと届いとる。
愛の流れは止まっておらんのじゃ✨
まとめ
- 反応を気にするほど、エネルギーは外に逃げる
- 拗ねるのは“愛されたい子”の声
- 「愛する側」へ意識を切り替えると心が軽くなる
- 脳は反応を“安全サイン”と誤認するが、それは錯覚
- 愛の返信を気にしない生き方は、自分の光を取り戻す道








