わしらが日々ふつうにやっておることも
誰かにとっては、願っても叶わぬことかもしれん
ミーサも、人生初のぎっくり腰で、体が動かしにくくなってのう
自分にとっての「当たり前」が
どれほど尊いものだったかに気づいたようじゃ
不自由さは、ときに
そんな「ありがたさ」や「やさしさ」を思い出させてくれる
体を通して、教えてくれておるんじゃな
急がぬように
焦らぬように
今ここを、日々を
当たり前を
もう一度ていねいに感じてくれよ
不自由さを感じたとき
どこか「完全じゃないわし」みたいな錯覚が出てくること ないかのう?
じゃがな
わしらが「ある」と感じることは
・動けるから
・喋れるから
・役に立てるから
では、ないんじゃ
「在る」ということは
すでにここに、まるごと在るということ
じゃからのう
痛みがあっても
何もできなくても
わしらの「存在価値」は、ちっとも減らんのじゃよ
存在確定とはな
「今、わたしはここに在る」という軸じゃ
動けるわしも
動けんわしも
まるごと「わたしは在る。ここにいる」と受け入れたとき
存在がピタッと定まる
するとな
自分が安心するんじゃ
逆に体調が良くない自分を「不完全」と決めつけるとな
元気なときの自分だけが正解になってしまうんじゃ
それでは今ここにいる「じぶん」を否定することになる
・できない自分を「ダメ」とせず、「今のわし」として迎えるとき
・誰かの役に立てずとも、そのままで価値があると気づいたとき
・痛みの中でも「わしはわし」と感じられるとき
そのとき、存在はパシッと確定するんじゃ
何かが欠けたときこそ
「当たり前」だったものに、ふいに感謝が湧くことがあるじゃろ?
朝、目が覚めたこと
呼吸ができていること
自分のペースで身体を動かせていること
何かを感じられていること
じゃが
その感謝もな
「今、無い」からこそ感じられた宝かもしれんのう
「欠けてなどおらぬ。ただ、在る。それだけで尊いのじゃ」
痛みも含めて、お主はお主。
その中でしか、気づけない景色があるからのう
さて、わしは
腰に優しいベッドで、しろくまと昼寝でもするかのう♡
じゃあの♡
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