なぜ「わしとして在る」ことが、こんなにも難しいのか
そんな問いが浮かぶとき、
心の奥に痛みがあるかもしれんのう。
「もっと自分らしく生きたいのに、誰かの目が気になってしまう」
「ほんとうの気持ちを伝えたいのに、空気を読んでしまう」
そんなふうに、
“わし”という存在の輪郭が、ぼやけて感じるときがあるじゃろう。
これはのう
自分が“存在している”という感覚を、
外の世界に委ねておるからじゃ。
誰かに認められたとき
結果が出たとき
褒められたとき
そのとき、わしらは「自分はここにいていいんだ」とホッとする。
でものう、それはほんの一瞬のこと。
光が去れば、また「わしは大丈夫なんじゃろうか」と不安が戻ってくる。
つまり、自分という存在の確かさを“他者”に預けてしまっとるんじゃ。
そして気づけば、
「いい人」や「がんばる自分」や「空気が読めるわし」になっておる。
そうやって“外から見て安心される存在”を演じることで、
本来の響きは奥へ奥へと引っ込んでしまうんじゃな。
そうじゃな
例えるならば
他人の服を何枚も重ね着して、
自分の肌の温度すら
感じられなくなってしまうようにのう。
じゃが、
輪郭を取り戻す道は、ちゃんとある。
大切なのはのう、
外に散らばった意識を、ひとつひとつ「内」に還していくこと。
・わしはどう感じとる?
・ほんとうはどうしたかったんじゃ?
そんなふうに、
日々の小さな場面で自分に問いかけてみるんじゃ。
その行為そのものが、
曖昧になった存在の輪郭を
はっきりさせることになるんじゃよ。
「わしは、わしらしく響いておるか」
誰かにどう見られるかではなく、
「自分の中に、ちゃんと自分が在るかどうか」
そこに意識を戻すだけで、
世界の色が変わって見えるようになるんじゃよ。
「わしが主となる。それだけで、世界は動き出す」
反応がなくても
誰かに届かなくても
わしらの存在は、失われることはない。
存在とは、他者に“見られて”初めて成り立つものではない。
わしは在る。
わしが主となる。
それだけで、十分なんじゃ。
