【存在証明の物語】 満たされない?そこに潜んでいるものとは。 《みんなの物語》

すべてを手に入れたはずの人生

夜景がよく見える、この席が好きだ。
高層階の窓際。
グラスの中で、氷が小さく音を立てる。
わたしは会社を経営している。
数字は順調だ。売上も、評価も、肩書きも、十分すぎるほどある。
おいしいものを食べて、華やかな車に乗って、クローゼットにはハイブランドが並んでいる。
家族もいる。仲間もいる。休日はゴルフ。
夏は仲間たちと別荘でバーベキュー。
SNSに写真を載せれば、反応はすぐに返ってくる。
いいねの数も、コメントも、申し分ない。
世間から見れば、「成功している人」そう呼ばれる側の人生だ。
……それなのに

グラスを口に運びながら、わたしは思う。
胸の奥に、いつもほんのりざわつきがある。
理由のはっきりしない、落ち着かなさ。
立ち止まってはいけない、という感覚。
止まった瞬間、何かが崩れてしまう気がする。
成功しているはずなのに、安心していない自分がいる。
全部あるのに…足りない。
贅沢な悩みだろうか

「今日は、お疲れのようですね」
カウンターの向こうで、マスターが声をかけてくれた。長く通っている店だ。
多くを聞かない人で、だから居心地がいい。
「ありがとう……」
それだけ答えて、また遠くを見つめる。
わたしは、もう十分に持っている。
「……これって…贅沢な悩みですよね」
マスターに向かって、ポツリと呟く。自分でも、そう思う。こんなことを言えば、誰かに叱られるかもしれない。
「全部あるのに、まだまだ足りないって思っているなんてね…」
わたしの呟きにマスターは何も言わず、グラスを磨いている。
その沈黙に、少しだけ助けられる。
比べて走ってきた

わたしは、誰かと比べてここまで来た。
上を見て、前を見て、遅れないように走ってきた。
評価される自分。
役割を果たす自分。
求められる自分。
気づけば「わたしは何者か」を説明する言葉が増えていた。
経営者。所有物。成功者。リーダー。ステータス。
どれも間違っていない。でも、そのどれもが、少しずつ重く感じていた。
止まるのが、怖い
「……わたし、何をそんなに急いでいるんでしょうね」
またぽつりと、こぼれる。
「止まるのが、怖いのかな…」
マスターは何も言わない。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。
埋まらない穴

どれだけ予定を埋めても…称賛を受け取っても、この穴は埋まらない。
「これ以上、何を手に入れればいいんだろう…」
空っぽになったグラスを見つめながら、わたしは思う。
もし…。肩書きも、成果も、所有しているものすべて外したら…。
そこに残る「わたし」は、自分らしく存在できるのだろうか。
何も持っていなくても「わたし」は愛されるのだろうか。
必要とされるのだろうか。
置き去りにしてきたもの
マスターが、そっと水の入ったグラス置いた。
「大丈夫…ですか?」
その一言が、じんわり胸に響いた。
わたしはもしかしたら、今まで大切な何かを、置き去りにしてきたのかもしれない。
グラスを置いて、席を立った。
少しだけ足元がふわりとするのは、ワインのせいか、それとも別の理由か。
「ちょっと…」
マスターにそう告げて、廊下を進む。
何かが、おかしい

この店のトイレは、少し広めで、落ち着いた空間が気に入っている。
扉を開けた瞬間、わたしは、足を止めた。
……ん?何かが、おかしい。
奥の壁に、見覚えのない扉を見つけた。
重厚な木の扉。
古びているのに、手入れだけは行き届いているような、不思議な佇まい。ここに、こんなものはなかったはずだ。
一度、目を擦る。
もう一度、見る。
消えない。
酔っている?
違う、ほろ酔い程度だ。意識ははっきりしている。
それなのに、その扉だけが、空間から少し浮いているように見える。
そのとき。

「お主……」
低く、静かな声が響いた。
振り向くと、子犬程度の白く長い存在が、空気の中にふんわり溶け込むように浮いていた。
目は澄んだ青。
威圧感はない。
「わしは龍神じゃ。気軽にりゅうちゃんと呼んでおくれ」
もうひとりの存在

その隣に、柔らかな光をまとった女性がスッと現れた。
穏やかな眼差しで、なにも言わず、ただこちらを見ていた。
「……な、なに、これ…」
こんな不思議な現象に、声が震えないことに、自分で驚く。
「ほろ酔いのおかげじゃな」
りゅうちゃんが、ふっと口角を上げる。
今度は、隣の女性がポツリと言った。
「はじめまして。ミーサです。ひみつのマインドラボの案内人なの。驚かせちゃってごめんね。でも…ここにわたしたちが現れたのは…あなたが呼んだのよ」
「え?わたしが?」
そんなはずはない、と否定したいのに、どこかで思い当たる感覚がある。
「お主の魂、ずいぶん乾いておるのう…。魂が可哀想じゃ。」
う……なに?
突然現れて、乾いているだなんて失礼な。
反射的にそう思った。
けれど、りゅうちゃんという存在からは、わたしを責める気配がなかった。
むしろ、わたしを見ているようで、見ていない。
もっと深いところを、見抜いているのが伝わった。
目を逸らせなかった。
そして同時に、やっと、わたしの中のぽっかりした穴を見つけてもらえたような気がした。
その瞬間、胸の奥で、何かがひび割れていくのを感じた。
龍神が暴いた本音

「お主の中では、こう叫んでおるじゃろ」
低い声が、逃げ場をふさぐ。
「もう充分やったはずなのに、なぜこんなに空っぽなんじゃ。これ以上、何をすればええんじゃ〜!とな。」
心臓が、大きく鳴る。
「止まりたいのに止まれん。休みたいのに休めん。胸の奥で、見えないタイマーが鳴り続けておる。
何もしておらん自分は、透明になってしまいそうで怖いんじゃ」
胸の内側が、つかまれるように縮む。
これは夢なのだろうか…。
「誰かに必要とされておらねば、不安で仕方がない。じゃが本当は、ずいぶん前から疲れておる。
この生き方は違うと、お主はもう気づいておる」
言われたくなかった。
けれど、ずっと言葉にしてほしかった気がした…
存在証明をやめられない理由

「お主、何が一番引っかかっておるか分かるかのう」
「……何?」
「それはのう。全ての役割を下ろしたら、自分には何も残らんのではないか。無価値になってしまうのではないか。お主はそれが怖いんじゃ」
空気が止まる。その通りだった。
「だから走る。だから積む。だから、自分の存在を証明し続ける。存在証明型ノイーズの仕業じゃな。」
ノイーズ?
ノイーズのことはわたしにはよく分からない…
でも、その通りだ。
わたしが走り続けてきたのは、向上心だけではない。
肩書きを外した自分の輪郭がわからない。
だから、何かを得ようとして走り続けてきたのだ。
羨ましさと嫌悪

「お主、このまま話を続けても良いかのう?」
わたしは、コクンと頷いた。
「笑いながら生きておる人を見て、ふと、ええなと思う自分がおるじゃろ…」
当たってる。
休日の午後、庭で土に触れている人。
予定を詰めずに、カフェで楽しそうに話している人。
肩の力を抜いて、生きている人。
その姿に、いいな、といつも思う。
けれど同時に、別の声が浮かぶ。
“わたしのほうが、地位もお金も持っているし”
かすかな毒がにじむ。
「お主の心はお見通しじゃ。毒づいてしまう自分を、お主自身が一番嫌っておる」
龍神の目が、まっすぐ射抜く。
みんなのことが羨ましい。
なのに、どこかで自分のほうが上だと測ってしまう。
そう。そんな自分を、誰よりも嫌っているのは、わたしだった。
憧れられる側でいなければならない

「お主はずっと頑張ってきた。いつの間にか、“憧れられる側”でおらねばならんと思い込んだ」
評価される側でいること。頼られる側でいること。
そこが、自分の居場所だと信じてきた。
鎧のようにまとった責任は、いつしか皮膚と区別がつかなくなっていた。
それを脱ぐという発想すら、浮かばなかった。
りゅうちゃんは、ほんの少しだけ声を緩めた。
「……本当は、もう疲れておるのにのう」
存在を取り戻す

龍神が語り終える前に、横からミーサという女性が、優しく語りかけた。
「……ねえ、そんな顔しなくていいよ」
そう言って、ミーサは軽く肩をすくめる。
「ひとつだけ、聞いてもいい?」
「うん…。」
「最近、“楽しい”って、考えずに、ただ感じたこと、ある?」
わたしは言葉を探す。
記憶をめくる。
けれど、すぐには出てこない。
その沈黙のあいだ、ミーサは急かさなかった。やがて、ゆるやかに首を横に振る。
「うん、ありがとう。それでいいよ」
目が、やさしく細められる。
「今の、その“間”。頭で探している感じ。そこに、もう気づきがあるね」
感覚を後回しにしてきた

ミーサは、少し照れたように笑う。
「地球にいる、もう一人のわたしもね、そうなの。楽しいって感じる前に、役割をこなすことで精一杯になっちゃってね」
ん??
地球にいる、もう一人のわたしって誰?
一瞬、意味が追いつかなかった。
その小さな戸惑いを察したのか、りゅうちゃんが軽く息をつく。
「ま、細かいことはええ」
そう前置きしてから、静かに続けた。
「人はのう、役に立っておるか、愛されておるか、期待に応えておるか…。それを証明することに意識を向けすぎると、自分の感覚を置き去りにしてしまうんじゃ」
その言葉に、胸の奥がきゅっとなる。
思い当たることばかりだった。
ちゃんとしていなければ、という声が、
いつも、背中を押していた。
いつも、肩がわずかに上がっていた。
楽しいかどうかよりも、役に立っているかどうか。
気づけば、評価のほうに自分自身を傾けていたのだ。
証明しなくても、在る

りゅうちゃんが、穏やかに言った。
「生きるというのはのう、何かを手に入れて“クリア”するゲームではない。うれしいときも、うまくいかんときも、泣きたいときも。お主は、お主のまま息をしておる。それ自体がのう、ここに在るという証じゃ」
「ここに在る…?」
「うむ。何かで証明せずともよい。ただ、鎧のない自分を全うし、自分を生きること。それがお主に必要なことじゃのう」
ミーサが、扉に手を添えて静かにこちらを見る。
「扉の先に入るかどうかは、自由だよ。今じゃなくてもいいし、今日はここまででもいい」
「そうじゃ。進むかどうかは、お主が決められるぞい」
扉は、すぐそこにある。
わたしは、まだ見ぬ自分に出会ってみたい。
扉の先に何があるのか…
存在を証明しなくても、頑張り続けなくても、満たされる世界があるのだろうか…
わたしは息をひとつ整え、そっと一歩を踏み出した。


